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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 答う。しかれば、今の禅宗も「向上」においては解了すべからず。もし解らずんば、禅にあらざるか。およそ「向上」を歌ってもって憍慢に住し、いまだ妄心を治せずして見性に奢り、機と法と相乖くこと、この責めもっとも親し。かたがた化儀を妨ぐ。その失、転た多し。
 謂わく、教外と号し、あまつさえ教外を学び、文筆を嗜みながら文字を立てず。言と心と相応せず。あに、天魔の部類、外道の弟子にあらずや。仏は文字に依って衆生を度し給うなり。
 問う。その証拠、いかん。
 答えて云わく、涅槃経の十五に云わく「願わくは、諸の衆生よ、ことごとく出世の文字を受持せよ」文。像法決疑経に云わく「文字に依るが故に、衆生を度し菩提を得」云々。もし文字を離れば、何をもってか仏事とせん。禅宗は言語をもって人に示さざらんや。もし示さずといわば、南天竺の達磨は四巻の楞伽経に依って五巻の疏を作り、慧可に伝うる時「我漢地を見るに、ただこの経のみあって人を度すべし。汝これに依って世を度すべし」云々。もししからば、みだりに「教外に別伝す」と号せんや。
 次に「伝えず」の言に至っては、「冷暖の二途は、ただ自ずから覚了するのみ」と云って文字に依るか。それも相伝の後の冷暖自知なり。ここをもって法華に云わく「悪知識を捨てて、善友に親近す」と。止観に云わく「師に値わざれば、邪慧日に増し、生死月に甚だし。稠林に曲木を曳くがごとく、出ずる期有ることなけん」云々。
 およそ世間の沙汰すら、なおもって他人に談合す。いわんや、出世の深理、いずくんぞたやすく自