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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

ってなり。彼の壮んなる人の他の寄物を受くるがごとし。この義をもっての故に、諸の大菩薩乃ち能く問うのみ」云々。大小の付嘱、それ別なること分明なり。
 同経の十に云わく「汝等文殊よ。当に四衆のために広く大法を説くべし。今、この経法をもって汝に付嘱す。乃至、迦葉・阿難等も来らば、また当にかくのごとき正法を付嘱すべし」云々。故に知んぬ、文殊は迦葉に大法を付嘱すべしと云々。仏より付嘱するところの法は小乗なり。
 悟性論に云わく「人、心をさとることあれば、菩提の道を得る故に仏と名づく」。菩提に五つあり。いずれの菩提ぞや。得道また種々なり。いずれの道ぞや。余経に明かすところは大菩提にあらず、また無上道にあらず。経に云わく「四十余年にはいまだ真実を顕さず」云々。
 問うて云わく、法華は貴賤・男女いずれの菩提の道を得べきや。
 答えて云わく、「乃至一偈においても、皆成仏せんこと疑いなし」云々。また云わく「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」云々。ここに知んぬ、無上菩提なり。「須臾もこれを聞かば、即ち阿耨菩提を究竟することを得」。この菩提を得んこと、須臾もこの法門を聞く功徳なり。
 問うて云わく、須臾とは、三十須臾を一日一夜という。「須臾もこれを聞かば」の「須臾」はこれを指すか、いかん。
 答う。件のごとし。天台、止観の二に云わく「須臾も廃することなかれ」云々。弘決に云わく「しばらくも廃することを許さず。故に『須臾』という」。故に須臾は刹那なり。
 問うて云わく、本分の田地にもとづくを禅の規模とす。