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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

からず、十方の浄土にも生まるべからず。法華経に背く咎重きが故に、永く地獄に堕つべしと見えたり。「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と云える、これなり。
 問うて云わく、「即ち安楽世界の阿弥陀仏に往く」と云々。この文の心は、法華経を受持し奉らん女人は、阿弥陀仏の浄土に生まるべしと説き給えり。念仏を申しても、阿弥陀の浄土に生まるべしと云う。浄土既に同じ。念仏も法華経も等しと心え候べきか、いかん。
 答えて云わく、観経は権教なり、法華経は実教なり。全く等しかるべからず。その故は、仏世に出でさせ給いて、四十余年の間多くの法を説き給いしかども、二乗と悪人と女人とをば簡いはてられて、成仏すべしとは一言も仰せられざりしに、この経にこそ敗種の二乗も三逆の調達も五障の女人も仏になるとは説き給い候いつれ。その旨、経文に見えたり。
 華厳経には「女人は地獄の使いなり。能く仏の種子を断つ。外面は菩薩に似て、内心は夜叉のごとし」と云えり。銀色女経には「三世の諸仏の眼は抜けて大地に落つるとも、法界の女人は永く仏になるべからず」と見えたり。また、経に云わく「女人は大鬼神なり。能く一切の人を喰らう」と。竜樹菩薩の大論には「一度女人を見れば、永く地獄の業を結ぶ」と見えたり。されば、実にてやありけん、善導和尚は謗法なれども、「女人をみずして一期生」と云われたり。また業平が歌にも「葎おいてあれたるやどのうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり」と云うも、女人をば鬼とよめるにこそ侍れ。
 また女人には五障三従ということ有るが故に、罪深しと見えたり。五障とは、一には梵天王、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏にならずと見えたり。また三従とは、女人は幼き時