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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 答えて云わく、法華経を説くべきなり。ゆえに法師品に云わく「もし人有って、何らの衆生か未来世において当に作仏することを得べきと問わば、応に示すべし、この諸人等は未来世において必ず作仏することを得んと」云々。安楽行品に云わく「難問するところ有らば、小乗の法をもって答えず、ただ大乗をもって、ために解説せよ」云々。これらの文の心は、いかなる衆生か仏になるべきと問わば、法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答うべきなり。これ仏の御本意なり。
 これに付いて不審あり、「衆生の根性区にして、念仏を聞かんと願う人もあり、法華経を聞かんと願う人もあり。念仏を聞かんと願う人に法華経を説いて聞かせんは、何の得益かあるべき。また念仏を聞かんがために請じたらん時にも、強いて法華経を説くべきか。仏の説法も機に随って得益有るをこそ本意とし給うらん」と不審する人あらば、云うべし。元より末法の世には、無智の人に、機に叶い叶わざるを顧みず、ただ強いて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。
 その故は、釈迦仏、昔不軽菩薩と云われて法華経を弘め給いしには、男・女・尼・法師がおしなべて用いざりき。あるいは罵られ毀られ、あるいは打たれ追われ、一しなならず。あるいは怨まれ嫉まれ給いしかども、少しもこりもなくして強いて法華経を説き給いし故に、今の釈迦仏となり給いしなり。不軽菩薩を罵りまいらせし人は、口もゆがまず、打ち奉りしかいなもすくまず。付法蔵の師子尊者も外道に殺されぬ。また法道三蔵も火印を面にあてられて江南に流され給いしぞかし。まして末法にかいなき僧の法華経を弘めんには、かかる難あるべしと経文に正しく見えたり。されば、人これを用いず、機に叶わずと云えども、強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり。これならでは仏に