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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

りを御覧ぜよ。一切叶わざるものなり。末法今の世の番衆は上行・無辺行等にておわしますなり。これらを能く能く明らめ信じてこそ、法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。
 譬えば、よき火打ちと、よき石のかどと、よきほくちと、この三つ寄り合って火を用いるなり。祈りもまたかくのごとし。よき師と、よき檀那と、よき法と、この三つ寄り合って祈りを成就し、国土の大難をも払うべきものなり。よき師とは、さしたる世間の失無くして、いささかのへつらうことなく、少欲知足にして慈悲有らん僧の、経文に任せて法華経を読み持って人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり。吉き檀那とは、貴人にもよらず賤人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用いずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉き人なりと仏は説き給えり。吉き法とは、この法華経を最為第一の法と説かれたり。已説の経の中にも、今説の経の中にも、当説の経の中にも、この経第一と見えて候えば、吉き法なり。
 禅宗・真言宗等の経法は第二第三なり。殊に取り分けて申せば、真言の法は第七重の劣なり。しかるに、日本国には第二第三、乃至第七重の劣の法をもって御祈禱あれども、いまだその証拠をみず。最上第一の妙法をもって御祈禱あるべきか。これを、「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」「ただこの一事のみ実なり」と云えり。誰か疑いをなすべきや。
 問うて云わく、無智の人来って生死を離るべき道を問わん時は、いずれの経の意をか説くべき。仏いかんが教え給えるや。