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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

また明鏡の譬え、真実に一二なり。委しくは大乗止観の釈のごとし。また能き釈には、籤の六に云わく「三千理に在れば同じく無明と名づけ、三千果成ずればことごとく常楽と称す。三千改むることなくして、無明即ち明なり。三千ならびに常にして、俱体俱用なり」文。この釈分明なり。
 問う。一切衆生皆ことごとく妙法蓮華経の当体ならば、我らがごとき愚癡・闇鈍の凡夫も、即ち妙法の当体なりや。
 答う。当世の諸人これ多しといえども、二人を出でず。謂わく、権教の人、実教の人なり。しかるに、権教方便の念仏等を信ずる人は、妙法蓮華の当体と云わるべからず。実教の法華経を信ずる人は、即ち当体の蓮華、真如の妙体これなり。
 涅槃経に云わく「一切衆生、大乗を信ずるが故に、大乗の衆生と名づく」文。大強精進経に云わく「衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを、妙法華経と称す」文。南岳大師、四安楽行に云わく「法華経を修行すれば、この一心一学に衆果あまねく備わる。一時に具足して次第入にあらず。また蓮華の一華に、衆果一時に具足するがごとし。これを一乗の衆生の義と名づく」文。また云わく「二乗の声聞および鈍根の菩薩は、方便道の中に次第して修学す。利根の菩薩は、正直に方便を捨てて次第行を修せず。もし法華三昧を証せば、衆果ことごとく具足す。これを一乗の衆生と名づく」文。
 南岳の釈の意は、「次第行」の三字をば当世の学者は別教なりと料簡するなり。しかるに、この釈の意は、法華の因果具足の道に対して方便道を次第行と云うが故に、爾前の円、爾前の諸大乗経なら