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久遠実成をあかさざるに記小・久成ありとおもい、華厳よりも超過の法華経を我が経に劣ると謂うは、僻見なり。三論の嘉祥の二蔵等、また法華経に般若経すぐれたりとおもうことは、僻案なり。善無畏等の大日経は法華経に勝れたりという、法華経の心をしらざるのみならず、大日経をもしらざる者なり。
問うて云わく、これら皆謗法ならば、悪道に堕ちたるか、いかん。
答えて云わく、謗法に上・中・下・雑の謗法あり。慈恩・嘉祥・澄観等が謗法は、上・中の謗法か。その上、自身も謗法としれるかのあいだ、悔い還す筆これあるか。また他師をはするに二つあり。能破・似破これなり。教はまさりとしれども、是非をあらわさんがために法をはす。これは似破なり。能破とは、実にまされる経を劣れるとおもうてこれをはす。これは悪能破なり。また現におとれるをはす。これ善能破なり。
ただし、脇尊者の金杖の譬えは、小乗経は多しといえども、同じく苦・空・無常・無我の理なり。諸人同じくこの義を存して十八部・二十部相諍論あれども、ただ門の諍いにて理の諍いにはあらず。故に、共に謗法とならず。外道が小乗経を破するは、外道の理は常住なり、小乗経の理は無常なり空なり。故に、外道が小乗経をはするは謗法となる。大乗経の理は中道なり、小乗経は空なり。小乗経の者の大乗経をはするは謗法となる。大乗経の者が小乗経をはするは破法とならず。
諸大乗経の中の理は未開会の理、いまだ記小・久成これなし。法華経の理は開会の理、記小・久成これあり。諸大乗経の者が法華経をはするは、謗法となるべし。法華経の者の諸大乗経を謗ずるは、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(029)顕謗法抄 | 弘長2年(’62) | 41歳 |