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謗法となるべからず。大日経・真言宗は、未開会にして記小・久成なくば、法華経已前なり。開会にして記小・久成を許さば、涅槃経とおなじ。ただし、善無畏三蔵・金剛智・不空・一行等の性悪の法門・一念三千の法門は、天台智者の法門をぬすめるか。もししからば、善無畏等の謗法は似破か、また雑謗法か。五百羅漢の真因は、小乗の十二因縁のことなり。無明・行等を縁として空理に入ると見えたり。門は諍えども、謗法とならず。摂論の四意趣、大論の四悉檀等は、無著菩薩・竜樹菩薩、滅後の論師として法華経をもって一切経の心をえて、四悉・四意趣等を用いて爾前の経々の意を判ずるなり。未開会の四意趣・四悉檀と開会の四意趣・四悉檀を同ぜば、あに謗法にあらずや。これらをよくよくしるは、教をしれる者なり。
四句あり。一に「信じて解せず」、二に「解して信ぜず」、三に「また信じまた解す」、四に「信ずるにあらず解するにあらず」。
問うて云わく、「信じて解せず」の者は謗法なるか。
答えて云わく、法華経に云わく「信をもって入ることを得たり」等云々。涅槃経の九に云わく。
難じて云わく、涅槃経三十六に云わく「我、契経の中において説く。二種の人有り、仏法僧を謗ず。一には、不信にして瞋恚の心の故に。二には、信ずといえども義を解せざるが故に。善男子よ。もし人信心あって智慧有ることなきは、この人は則ち能く無明を増長す。もし智慧有って信心有ることなきは、この人は則ち能く邪見を増長す。善男子よ。不信の人は、瞋恚の心の故に、説いて仏法僧の宝有ることなしと言わん。信ずる者にして慧無きは、顚倒して義を解するが故に、法を聞く者をして仏
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(029)顕謗法抄 | 弘長2年(’62) | 41歳 |