説の無量義経、当説の未来にとくべき涅槃経を嫌って、法華経ばかりをほめたり。
釈迦如来、過去・現在・未来の三世の諸仏、世にいで給いて各々一切経を説き給うに、いずれの仏も法華経第一なり。例せば、上郎・下郎は不定なり。田舎にしては百姓・郎従等は侍を上郎という。洛陽にして源平等已下を下郎という。三家を上郎という。また主を王といわば、百姓も宅中の王なり。地頭・領家等また村・郷・郡・国の王なり。しかれども大王にはあらず。
小乗経には無為涅槃の理、王なり。小乗の戒・定等に対して、智慧は王なり。諸大乗経には中道の理、王なり。また華厳経は円融相即の王、般若経は空理の王、大集経は守護正法の王、薬師経は薬師如来の別願を説く経の中の王、双観経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中の王、大日経は印・真言を説く経の中の王、一代一切経の王にはあらず。法華経は真諦・俗諦、空・仮・中、印・真言、無為の理、十二大願、四十八願、一切諸経の説くところの所詮の法門の大王なり。これは教をしれる者なり。
しかるを、善無畏・金剛智・不空・法蔵・澄観・慈恩・嘉祥・南三北七・曇鸞・道綽・善導・達磨等の我が立つるところの依経を一代第一といえるは、教をしらざる者なり。ただし、一切の人師の中には、天台智者大師一人、教をしれる人なり。曇鸞・道綽等の聖道・浄土、難行・易行、正行・雑行は、源、十住毘婆沙論に依る。彼の本論に難行の内に法華・真言等を入ると謂うは僻案なり。論主の心と、論の始中終をしらざる失あり。慈恩が深密経の三時に一代をおさめたること、また本経の三時に一切経の摂まらざることをしらざる失あり。法蔵・澄観等が、五教に一代をおさむる中に法華経・華厳経を円教と立て、また華厳経は法華経に勝れたりとおもえるは、依るところの華厳経に二乗作仏・
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(029)顕謗法抄 | 弘長2年(’62) | 41歳 |