376ページ
槃に入らず。一切の善根を捨つる闡提にはあらず。何をもっての故に。大慧よ。彼の一切の善根を捨つる闡提は、もし諸仏・善知識等に値いたてまつらば、菩提心を発し、諸の善根を生じて、便ち涅槃を証す』と」等云々。
この経文に「もし諸の衆生、涅槃に入らずんば、我もまた涅槃に入らじ」等云々。前四味の諸経に二乗作仏を許さず。これをもってこれを思うに、四味の諸経の四教の菩薩も作仏有り難きか。華厳経に云わく「衆生界尽きざれば、我が願もまた尽きず」等云々。一切の菩薩必ず四弘誓願を発すべし。その中の衆生無辺誓願度の願これを満ぜざれば、無上菩提誓願証の願また成じ難し。これをもってこれを案ずるに、「四十余年」の文二乗に限れば、菩薩の願また成じ難きか。
問うて云わく、二乗の成仏これ無ければ菩薩の成仏もこれ無きの正しき証文、いかん。
答えて云わく、涅槃経三十六に云わく「仏性はこれ衆生に有りと信ずといえども、必ずしも一切みなこれ有るにはあらずとす。この故に名づけて信不具足となす」〈三十六本の三十二〉。この文のごとくんば、先四味の諸の菩薩は皆、一闡提の人なり。二乗作仏を許さざるは、二乗の作仏を成ぜざるのみにあらず、はたまた菩薩の作仏もこれを許さざるものなり。これをもってこれを思うに、「四十余年」の文、二乗作仏を許さずんば、菩薩の成仏もまたこれ無きものなり。
一乗要決の中に云わく「涅槃経三十六に云わく『仏性はこれ衆生に有りと信ずといえども、必ずしも一切みなこれ有るにはあらずとす。この故に名づけて信不具足となす』〈三十六本の三十二〉。第三十一に説かく『一切衆生および一闡提ことごとく仏性有りと信ずるを、菩薩の十法の中の第一の信心具
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(022)爾前二乗菩薩不作仏事 | 正元元年(’59) | 38歳 |