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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

弟子・章安大師に教え給う止観と申す文十巻あり。上四帖になお秘し給いて、ただ六即・四種三昧等ばかりなり。五の巻に至って十境十乗・一念三千の法門を立て、「夫れ、一心に具す」等云々。これより二百年の後に、妙楽大師釈して云わく「当に知るべし、身土は一念の三千なり。故に、成道の時、この本理に称って、一身一念法界に遍し」云々。この一念三千・一心三観の法門は、法華経の一の巻の十如是より起これり。文の心は、百界千如・三千世間云々。
 さて一心三観と申すは、余宗は「如是」とあそばす。これ僻事にて二義かけたり。天台・南岳の御義を知らざる故なり。されば、当宗には天台の所釈のごとく三遍読むに功徳まさる。
 第一に「是相如(この相は如なり)」と、相・性・体・力以下の十を「如」と云う。「如」というは空の義なるが故に、十法界、皆空諦なり。これを読み観ずる時は、我が身即ち報身如来なり。八万四千または般若とも申す。第二に「如是相(かくのごとき相)」。これ我が身の色形に顕れたる相なり。これ皆仮なり。相・性・体・力以下の十なれば、十法界皆仮諦と申して仮の義なり。これを読み観ずる時は、我が身即ち応身如来なり。または解脱とも申す。第三に「相如是(相は是に如す)」と云うは、中道と申して仏の法身の形なり。これを読み観ずる時は、我が身即ち法身如来なり。または中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す。
 この三つを法・報・応の三身とも、空・仮・中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳とも申す。この三身如来全く外になし。我が身即ち三徳究竟の体にて、三身即一身の本覚の仏なり。これをしるを、如来とも聖人とも悟りとも云う。知らざるを、凡夫とも衆生とも迷いとも申す。