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ならびに一切の諸の仏菩薩および諸の世天等をもって、捨閉閣抛の字を置いて、一切衆生の心を薄んず。これひとえに私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず。妄語の至り悪口の科、言っても比い無く、責めても余り有り。
人皆その妄語を信じ、ことごとく彼の選択を貴ぶ。故に、浄土の三経を崇めて衆経を抛ち、極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る。誠にこれ諸仏・諸経の怨敵、聖僧・衆人の讐敵なり。この邪教、広く八荒に弘まり、あまねく十方に遍す。
そもそも、近年の災いをもって往代を難ずるの由、あながちにこれを恐る。いささか先例を引いて汝が迷いを悟すべし。
止観の第二に史記を引いて云わく「周の末に被髪・袒身にして、礼度に依らざる者有り」。弘決の第二にこの文を釈するに、左伝を引いて曰わく「初め平王の東に遷るや、伊川に被髪の者の野において祭るを見る。識者曰わく『百年に及ばじ。その礼まず亡びぬ』と」。ここに知んぬ、徴前に顕れ、災い後に致ることを。また「阮籍は逸才なりしに蓬頭・散帯す。後に、公卿の子孫、皆これに教って、奴狗相辱しむる者を方に自然に達すといい、撙節・兢持する者を呼んで田舎となす。司馬氏の滅ぶる相となす」已上。
また慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云わく「唐の武宗皇帝、会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺において弥陀念仏の教えを伝えしむ。寺ごとに三日巡輪すること絶えず。同二年、回鶻国の軍兵等、唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使たちまち乱を起こす。その後、大蕃国また命を拒み、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(002)立正安国論 | 文応元年(’60)7月16日 | 39歳 | 北条時頼 |