341ページ
密の奥蔵を発く。これを称して妙となす」。また云わく「妙とは、最勝修多羅、甘露の門なり。故に妙と言うなり」。
法は、玄義に云わく「言うところの法とは、十界十如、権実の法なり」。また云わく「権実の正軌を示す。故に号して法となす」。
蓮華は、玄義に云わく「蓮華とは、権実の法に譬うるなり」。また云わく「久遠の本果を指す。これを喩うるに蓮をもってす。不二の円道に会す。これを譬うるに華をもってす」文。
経は、玄義に云わく「声、仏事をなす。これを称して経となす」文。
私に云わく、法華已前の諸経に、小乗は心生ずれば六界、心滅すれば四界なり。通教もってかくのごとし。爾前の別・円の二教は、心生の十界なり。小乗の意は、六道四生の苦楽は衆生の心より生ずと習う。されば、心滅すれば、六道の因果は無きなり。大乗の心は、心より十界を生ず。華厳経に云わく「心は工みなる画師の種々の五陰を造るがごとく、一切世間の中に法として造らざることなし」文。「種々の五陰」とは、十界の五陰なり。仏界をも心法をも造ると習う。心が過去・現在・未来の十方の仏と顕ると習うなり。華厳経に云わく「もし人、三世の一切の仏を了知せんと欲せば、応当にかくのごとく観ずべし、心は諸の如来を造ると」。
法華已前の経のおきては、上品の十悪は地獄の引業、中品の十悪は餓鬼の引業、下品の十悪は畜生の引業、五常は修羅の引業、三帰五戒は人の引業、三帰十善は六欲天の引業なり。有漏の坐禅は色界・無色界の引業、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(017)一代聖教大意 | 正嘉2年(’58)2月14日 | 37歳 |