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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

聞・縁覚の引業、五戒・八戒乃至三聚浄戒の上に六度・四弘の菩提心を発すは菩薩なり、仏界の引業なり。蔵・通二教には、仏性の沙汰なし。ただ菩薩の発心を仏性という。別・円の二教には、衆生に仏性を論ず。ただし、別教の意は、二乗に仏性を論ぜず。爾前の円教は、別教に附して二乗の仏性の沙汰無し。これらは皆、麤法なり。
 今の妙法とは、これらの十界を互いに具すと説く時、妙法と申す。十界互具と申すことは、十界の内に、一界に余の九界を具し、十界互いに具すれば百法界なり。玄義の二に云わく「一法界有って九法界を具すれば、即ち百法界有り」文。法華経とは別のことなし。十界の因果は爾前の経に明かす。今は十界の因果互具をおきてたるばかりなり。
 爾前の経の意は、菩薩をば仏に成るべし、声聞は仏に成るまじなんど説けば、菩薩は悦び、声聞はなげき、人天等はおもいもかけずなんどある経も有り。あるいは二乗は見思を断じて六道を出でんと念い、菩薩はわざと煩悩を断ぜず六道に生まれて衆生を利益せんと念う。あるいは菩薩の頓悟成仏を見、あるいは菩薩の多俱低劫の修行を見、あるいは凡夫往生の旨を説けば菩薩・声聞のためにはあらずと見て、人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏、凡夫の往生は我が往生、聖人の見思断は我ら凡夫の見思断とも知らずして、四十二年は過ぎしなり。
 しかるを、今の経にして十界互具を談ずる時、声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば、六度万行も修せず多俱低劫も経ぬ声聞が、諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具するあいだ、おもわざる外に、声聞が菩薩と云われ、人をせむる獄卒、慳貪なる凡夫もまた菩薩と云わ