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い、悦びあえり。これを仏は、「夢の中のさかえ、まぼろしのたのしみなり。ただ法華経を持ち奉り、速やかに仏になるべし」と説き給えり。
また、四の巻に云わく「しかもこの経は、如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」云々。釈迦仏は、師子頰王の孫、浄飯王には嫡子なり。十善の位をすて、五天竺第一なりし美女・耶輸多羅女をふりすてて、十九の御年出家して勤め行い給いしかば、三十の御年成道し御坐しまして、三十二相八十種好の御形にて、御幸なる時は、大梵天王・帝釈左右に立ち、多聞・持国等の四天王先後囲繞せり。法を説き給う御時は、四弁八音の説法は祇園精舎に満ち、三智五眼の徳は四海にしけり。しかれば、いずれの人か仏を悪むべき。なれども、なお怨嫉するもの多し。まして滅度の後、一毫の煩悩をも断ぜず少しの罪をも弁えざらん法華経の行者を悪み嫉む者多からんことは、雲霞のごとくならんと見えたり。しからば則ち、末代悪世にこの経をありのままに説く人には敵多からんと説かれて候に、世間の人々、我も持ちたり我も読み奉り行じ候に、敵なきは、仏の虚言か、法華経の実ならざるか。また実の御経ならば、当世の人々、経をよみまいらせ候は虚よみか、実の行者にてはなきか、いかん。能く能く心得べきことなり。明らむべきものなり。
四の巻に、多宝如来は、釈迦牟尼仏御年三十にして仏に成り給うに、初めには華厳経と申す経を実報華王のみぎりにして、別円頓大の法輪、法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に対して三七日の間説き給いしにも来り給わず。その二乗の機根叶わざりしかば、瓔珞細軟の衣をぬぎすて、麤弊垢膩の衣を着、波羅奈国鹿野苑に趣いて、十二年の間生滅四諦の法門を説き給いしに、阿若俱隣等の五人
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(016)主師親御書 | 建長7年(’55) | 34歳 |