266ページ
問う。末法に入って初心の行者、必ず円の三学を具するや不や。
答えて曰わく、この義大事たるが故に、経文を勘え出だして貴辺に送付す。いわゆる五品の初・二・三品には、仏正しく戒・定の二法を制止して、一向に慧の一分に限る。慧また堪えざれば、信をもって慧に代え、信の一字を詮となす。不信は一闡提・謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり。天台云わく「もし相似の益ならば、生を隔つるも忘れず。名字・観行の益ならば、生を隔つれば即ち忘れ、あるいは忘れざるも有り。忘るる者も、もし知識に値わば宿善還って生ず、もし悪友に値わば則ち本心を失う」云々。恐らくは、中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も、天台・伝教の善知識に違背して、心は無畏・不空等の悪友に遷れり。末代の学者、恵心の往生要集の序に狂惑せられて、法華の本心を失い、弥陀の権門に入る。退大取小の者なり。過去をもってこれを惟うに、未来無数劫を経るも、三悪道に処せん。「もし悪友に値わば則ち本心を失う」とは、これなり。
問うて曰わく、その証いかん。
答えて曰わく、止観の第六に云わく「前教にその位を高くする所以は、方便の説なればなり。円教の位下きは、真実の説なればなり」。弘決に云わく「『前教』より下は、正しく権実を判ず。教いよいよ実なれば位いよいよ下く、教いよいよ権なれば位いよいよ高きが故に」。また記の九に云わく「位を判ずとは、観境いよいよ深く実位いよいよ下きを顕す」云々。他宗はしばらくこれを置く、天台一門の学者等、何ぞ「実位いよいよ下し」の釈を閣いて恵心僧都の筆を用いるや。畏・智・空と覚・証とのことは、追ってこれを習え。大事なり、大事なり、一閻浮提第一の大事なり。心有らん人は聞い
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(012)四信五品抄 | 建治3年(’77)4月10日 | 56歳 | 富木常忍 |