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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

ざる故に、あるいは多人のいうかたにつきて一人の実義をすて、あるいは上人の言について少人の実義をすつ。あるいは威徳の者のいうぎにつきて無威の者の実義をすつ。仏は「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」といましめ給えども、末代の諸人は「依人不依法(人に依って法に依らず)」となりぬ。仏は「依了義経不依不了義経(了義経に依って不了義経に依らざれ)」とはせいし給えども、濁世の衆生は「依不了義経不依了義経(不了義経に依って了義経に依らず)」の者となりぬ。
 あらあら世間の法門を案ずるに、華厳宗と申す宗は華厳経を本として一切経をすべたり。法相宗・三論宗等も皆、我が依経を本として諸経を釈するなり。されば、華厳宗、人多しといえども澄観等の心をいでず。彼の宗の人々、諸経をよめども、ただ澄観の心をよむなり。全く諸経をばよまず。余宗またかくのごとし。澄観等、仏意にあいかなわば、彼らまた仏意に相叶うべし。澄観もし仏意に相叶わずば、彼の宗の諸人また仏意に相叶うべからず。一人妄をさえずれば、諸人妄をつたう。一人まつり事おだやかならざれば、万民苦をなすがごとし。
 当世の念仏者、たとい諸経・諸仏を念じ行ずとおもえども、道綽・善導・法然等の心をすぎず。もししからば、道綽禅師が「いまだ一人の得る者有らず」の釈、善導が「千の中に一りも無し」の釈、法然が「捨閉閣抛」の四字謬りならば、たとい一代聖教をそらにせる念仏者なりとも、阿弥陀の本願にもすてられ、諸仏の御意にもそむき、法華経の「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」の者とならんこと疑いなし。これひとえに、「依法不依人」の仏の誓戒をそむいて、人によりぬる失のいたすところなり。