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人の身の五尺六尺のたましいも一尺の面にあらわれ、一尺のかおのたましいも一寸の眼の内におさまり候。また、日本と申す二つの文字に、六十六箇国の人畜田畠・上下貴賤・七珍万宝、一つもかくること候わず収めて候。そのごとく、南無妙法蓮華経の題目の内には、一部八巻二十八品六万九千三百八十四の文字、一字ももれずかけずおさめて候。
されば、「経には題目たり、仏には眼たり」と楽天ものべられて候。記の八に「略して経題を挙ぐるに、玄に一部を収む」と妙楽も釈しおわしまし候。心は、略して経の名ばかりを挙ぐるに、一部を収むと申す文なり。
一切のことにつけて、所詮・肝要と申すことあり。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候。朝夕御唱え候わば、正しく法華経一部を真読にあそばすにて候。二返唱うるは二部、乃至百返は百部、千返は千部、かように不退に御唱え候わば、不退に法華経を読む人にて候べく候。天台の六十巻と申す文には、このようを釈せられて候。かかる持ちやすく行じやすき法にて候を、末代悪世の一切衆生のために説きおかせ給いて候。
経文に云わく「末法の中において」「後の末世の法滅せんと欲せん時において、受持し読誦せん」「悪世末法の時、能くこの経を持たば」「後の五百歳の中、広宣流布して」と。これらの文の心は、当時、末法の代には法華経を持ち信ずべきよしを説かれて候。
かかる明文を学しあやまりて、日本・漢土・天竺の謗法の学匠たち、皆、念仏者・真言・禅・律の小乗・権教には随い行じて、法華経を捨てはて候いぬ。仏法にまどえるをばしろしめされず、形まこと
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(407)妙法尼御前御返事(一句肝心の事) | 弘安元年(’78)7月3日 | 57歳 | 妙法尼 |