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いわゆる、雪山童子と申せし人は、身を鬼にまかせて八字をならえり。薬王菩薩と申せし人は、臂をやいて法華経に奉る。我が朝にも聖徳太子と申せし人は、手のかわをはいで法華経をかき奉り、天智天皇と申せし国王は、無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る。これらは賢人・聖人のことなれば、我らは叶いがたきことにて候。
ただし、仏になり候ことは、凡夫は志と申す文字を心えて仏になり候なり。志と申すはなに事ぞと委細にかんがえて候えば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたずね候えば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。うえたるよに、これはなしてはきょうの命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ごりょうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは、薬王のひじをやき雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいおとらぬ功徳にて候えば、聖人の御ためには事供よう、凡夫のためには理くよう、止観の第七の観心の檀はら蜜と申す法門なり。
まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には「もし深く世法を識らば、即ちこれ仏法なり」ととかれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書は、皆これ仏説にして外道の説にあらず」と仰せられて候を、妙楽大師、法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」の経文に引き合わせて、心をあらわされて候には、彼々の二経は深心の経々なれども、彼の経々はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(397)白米一俵御書 | 弘安期 |