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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

華経の行者を失わんとするなりと説かれて候ぞ。
 夫れ、大事の法門と申すは別に候わず。時に当たって、我がため国のため大事なることを少しも勘えたがえざるが、智者にては候なり。仏のいみじきと申すは、過去を勘え、未来をしり、三世を知ろしめすに過ぎて候御智慧はなし。たとい仏にあらねども、竜樹・天親・天台・伝教なんど申せし聖人・賢人等は、仏程こそなかりしかども、三世のことをほぼ知ろしめされて候いしかば、名をも未来まで流されて候いき。
 詮ずるところ、万法は己心に収まって一塵もかけず、九山八海も我が身に備わって日月・衆星も己心にあり。しかりといえども、盲目の者の鏡に影を浮かべるに見えず、嬰児の水火を怖れざるがごとし。外典の外道、内典の小乗・権大乗等は、皆、己心の法を片端片端説いて候なり。しかりといえども、法華経のごとく説かず。しかれば、経々に勝劣あり、人々にも聖賢分かれて候ぞ。法門多々なれば、止め候い畢わんぬ。
 鎌倉より御下りそうそうの御隙に、使者申すばかりなし。その上、種々の物送り給び候こと、悦び入って候。
 日本は皆人の歎き候に、日蓮が一類こそ歎きの中に悦び候え。国に候えば、蒙古の責めはよも脱れ候わじ。なれども、国のために責められ候いしことは、天も知ろしめして候えば、後生は必ずたすかりなんと悦び候に、御辺こそ今生に蒙古国の恩を蒙らせ給いて候え。このこと起こらずば、最明寺殿の十三年に当たらせ給いては、御かりは所領にては申すばかりなし、北条六郎殿のように筑紫に