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たえ、大刀を腰にはけるがごとし。天台宗は意密ばかりなれば、甲なる将軍の赤裸なるがごとくならん」といいければ、一行阿闍梨はこのようにかきけり。
漢土三百六十箇国には、このことを知る人なかりけるかのあいだ、始めには勝劣を諍論しけれども、善無畏等は人がら重し、天台宗の人々は軽かりけり。また天台大師ほどの智ある者もなかりければ、ただ日々に真言宗になりてさてやみにけり。年ひさしくなれば、いよいよ真言の誑惑の根、ふかくかくれて候いけり。
日本国の伝教大師、漢土にわたりて天台宗をわたし給いしついでに、真言宗をならべわたす。天台宗を日本の皇帝にさずけ、真言宗を六宗の大徳にならわせ給う。ただし、六宗と天台宗の勝劣は、入唐已前に定めさせ給う。入唐已後には円頓の戒場を立ちょう立てじの論が計りなかりけるかのあいだ、敵多くしては戒場の一事成じがたしとやおぼしめしけん、また末法にせめさせんとやおぼしけん、皇帝の御前にしても論ぜさせ給わず。弟子等にもはかばかしくかたらせ給わず。ただし、依憑集と申す一巻の秘書あり。七宗の人々の天台に落ちたるようをかかれて候文なり。かの文の序に真言宗の誑惑一筆みえて候。
弘法大師は、同じき延暦年中に御入唐、青竜寺の恵果に値い給いて真言宗をならわせ給えり。御帰朝の後、一代の勝劣を判じ給いけるには「第一真言、第二華厳、第三法華」とかかれて候。この大師は、世間の人々はもってのほかに重んずる人なり。ただし、仏法のことは、申すにおそれあれども、もってのほかにあらきことどもはんべり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |