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その時、天子大いに驚かせ給いて、同じき二十九日に広世・国道の両吏を勅使として、重ねて七寺・六宗に仰せ下されしかば、各々帰伏の状を載せて云わく「ひそかに天台の玄疏を見れば、総じて釈迦一代の教えを括ってことごとくその趣を顕すに通ぜざるところ無く、独り諸宗に逾え、殊に一道を示す。その中の所説、甚深の妙理なり。七箇の大寺、六宗の学生、昔よりいまだ聞かざるところ、かつていまだ見ざるところなり。三論・法相の久年の諍い渙焉として氷のごとく釈け、照然として既に明らかなること、なお雲霧を披いて三光を見るがごとし。聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずるところの経論その数多し。彼此、理を争えども、その疑いいまだ解けず。しかもこの最妙の円宗なおいまだ闡揚せず。けだしもって、この間の群生いまだ円味に応わざるか。伏して惟んみれば、聖朝久しく如来の付を受け、深く純円の機を結び、一妙の義理始めて乃ち興顕し、六宗の学者初めて至極を悟る。この界の含霊、今より後、ことごとく妙円の船に載り、早く彼岸に済ることを得と謂いつべし乃至善議等、牽かれて休運に逢い、乃ち奇詞を閲す。深く期するにあらざるよりは、何ぞ聖世に託せんや」等云々。
彼の漢土の嘉祥等は、一百余人をあつめて天台大師を聖人と定めたり。今、日本の七寺二百余人は、伝教大師を聖人とごうしたてまつる。仏の滅後二千余年に及んで、両国に聖人二人出現せり。その上、天台大師未弘の円頓大戒を叡山に建立し給う。これあに像法の末に法華経広宣流布するにあらずや。
答えて云わく、迦葉・阿難等の弘通せざる大法を馬鳴・竜樹・提婆・天親等の弘通せること、前の難に顕れたり。また竜樹・天親等の流布し残し給える大法を天台大師の弘通し給うこと、また難にあら
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |