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故に、秀句に云わく「経に云わく『もし須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、またいまだ難しとなさず乃至もし仏滅して後、悪世の中において、能くこの経を説かば、これは則ち難しとなす』と」等云々。この経を釈して云わく「浅きは易く深きは難しとは、釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは、丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」云々。釈の心は、賢劫第九の減、人寿百歳の時より、如来在世五十年、滅後一千八百余年が中間に、高さ十六万八千由旬・六百六十二万里の金山を、人有って五尺の小身の手をもって方一寸二寸等の瓦礫をにぎりて一丁二丁までなぐるがごとく、雀鳥のとぶよりもはやく鉄囲山の外へなぐる者はありとも、法華経を仏のとかせ給いしように説かん人は末法にはまれなるべし。天台大師・伝教大師こそ仏説に相似してとかせ給いたる人にておわすれとなり。天竺の論師は、いまだ法華経へゆきつき給わず。漢土の天台已前の人師は、あるいはすぎ、あるいはたらず。慈恩・法蔵・善無畏等は、東を西といい、天を地と申せる人々なり。
これらは伝教大師の自讃にはあらず。去ぬる延暦二十一年正月十九日、高雄山に桓武皇帝行幸なりて、六宗・七大寺の碩徳たる善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人、最澄法師と召し合わせられて宗論ありしに、あるいは一言に舌を巻いて二言三言に及ばず、皆一同に頭をかたぶけ、手をあざう。三論の二蔵・三時・三転法輪、法相の三時・五性、華厳宗の四教・五教・根本枝末・六相・十玄、皆大綱をやぶらる。例せば、大屋の棟梁のおれたるがごとし。十大徳の慢幢も倒れにき。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |