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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

となり、あるいは女となり、形をかえ、さまざまに供養してたすくべしという経文なり。弥三郎殿夫婦の「士女」と生まれて、日蓮法師を供養すること疑いなし。さきにまいらせし文につぶさにかきて候いしあいだ、今はくわしからず。
 ことに当地頭の病悩について祈せい申すべきよし仰せ候いしあいだ、案にあつかいて候。しかれども、一分信仰の心を日蓮に出だし給えば、法華経へそしょうとこそおもい候え。この時は、十羅刹女もいかでか力をあわせ給わざるべきと思い候いて、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏ならびに天照・八幡・大小の神祇等に申して候。定めて評議ありてぞしるしをばあらわし給わん、よも日蓮をば捨てさせ給わじ、いたきとかゆきとのごとくあてがわせ給わんとおもい候いしに、ついに病悩なおり、海中、いろくずの中より出現の仏体を日蓮にたまわること、これ病悩のゆえなり。さだめて十羅刹女のせめなり。この功徳も、夫婦二人の功徳となるべし。
 我ら衆生、無始よりこのかた生死海の中にありしが、法華経の行者となりて、「無始色心、本是理性、妙境妙智(無始の色心は、本よりこれ理性にして、妙境・妙智なり)」の金剛不滅の仏身とならんこと、あにかの仏にかわるべきや。過去久遠五百塵点のそのかみ「唯我一人」の教主釈尊とは、我ら衆生のことなり。法華経の一念三千の法門、「常住此説法」のふるまいなり。かかるとうとき法華経と釈尊にておわせども、凡夫はしることなし。寿量品に云わく「顚倒の衆生をして、近しといえども見ざらしむ」とは、これなり。迷悟の不同は沙羅の四見のごとし。一念三千の仏と申すは、法界の成仏ということにて候ぞ。