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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

は病する子にありとなり。
 仏の御ためには一切衆生は皆、子なり。その中、罪ふかくして、世間の父母をころし、仏経のかたきとなる者は、病子のごとし。
 しかるに、阿闍世王は摩竭提国の主なり。我が大檀那たりし頻婆舎羅王をころし、我がてきとなりしかば、天もすてて日月に変いで、地も頂かじとふるい、万民みな仏法にそむき、他国より摩竭国をせむ。これらはひとえに悪人・提婆達多を師とせるゆえなり。結句は、今日より悪瘡身に出でて、三月の七日、無間地獄に堕つべし。これがかなしければ、我涅槃せんこと心にかかるというなり。我、阿闍世王をすくいなば、一切の罪人、阿闍世王のごとしとなげかせ給いき。
 しかるに、聖霊は、あるいは病子あり、あるいは女子あり。われすてて冥途にゆきなば、かれたる朽ち木のようなるとしより尼が一人とどまりて、この子どもをいかに心ぐるしかるらんとなげかれぬらんとおぼゆ。
 かの心のかたがたには、また日蓮がこと心にかからせ給いけん。「仏語むなしからざれば、法華経ひろまらせ給うべし。それについては、この御房はいかなることもありて、いみじくならせ給うべし」とおぼしつらんに、いうかいなくながし失せしかば、「いかにや、いかにや。法華経・十羅刹は」とこそおもわれけんに、いままでだにもながらえ給いたりしかば、日蓮がゆりて候いし時、いかに悦ばせ給わん。また、いいしことむなしからずして、大蒙古国もよせて国土もあやおしげになりて候えば、いかに悦び給わん。これは凡夫の心なり。