「禅宗の極理は天台・真言の極理なり。弥陀念仏は法華経の肝心なり」なんど答え申すなり。しかるを、念仏者・禅宗等のやつばらには天魔乗りうつりて、当世の天台・真言の僧よりも智慧かしこきゆえに、「全くしからず。禅ははるかに天台・真言に超えたる極理なり」、あるいは云わく「諸教は理深、我ら衆生は解微なり。機・教、相違せり。得道あるべからず」なんど申すゆえに、天台・真言等の学者、王臣等の檀那皆奪いとられて御帰依なければ、現身に餓鬼道に堕ちて友の肉をはみ、仏神にいかりをなし、檀那をずそし、年々に災いを起こし、あるいは我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい、あるいは生身の弥勒菩薩をほろぼす。進んでは教主釈尊の怨敵となり、退いては当来の弥勒の出世を過たんとくるい候か。この大罪は経論にいまだとかれず。
また、この大罪は叡山三千人の失にあらず、公家・武家の失となるべし。日本一州、上下万人、一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓ならびに天照太神等、隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか。例せば、国民たりし清盛入道、王法をかたぶけたてまつり、結句は山王・大仏殿をやきはらいしかば、天照太神・正八幡・山王等よりきせさせ給いて、源頼義が末の頼朝に仰せ下して、平家をほろぼされて国土安穏なりき。今、一国挙って仏神の敵となれり。我が国にこの国を領すべき人なきかのゆえに、大蒙古国は起こるとみえたり。例せば、震旦・高麗等は、天竺についでは仏国なるべし。彼の国々、禅宗・念仏宗になりて蒙古にほろぼされぬ。日本国は彼の二国の弟子なり。二国のほろぼされんに、あにこの国安穏なるべしや。国をたすけ家をおもわん人々は、いそぎ禅・念の輩を経文のごとくいましめらるべきか。経文のごとくならば、仏神、日本国にましまさず。かれを
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(237)法門申さるべき様の事 | 文永6年(’69) | 48歳 | 三位房 |