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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 日蓮はその人にもあらず、また御使いにもあらざれども、まず序分にあらあら弘め候なり。既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁の衆生に流れかよわし給う。これ智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与え給う。しかるに、日蓮、また日本国にしてこの法門を弘む。
 また、これには総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば、成仏思いもよらず。輪廻生死のもといたらん。例せば、大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇って成仏せず。譬えば、大海の水を家内へくみ来らんには、家内の者、皆縁をふるべきなり。しかれども、汲み来るところの大海の一滴を閣いて、また他方の大海の水を求めんことは、大僻案なり、大愚癡なり。法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば、必ず輪廻生死のわざわいなるべし。
 ただし、師なりとも、誤りある者をば捨つべし。また、捨てざる義も有るべし。世間・仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は、仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらうなり。ただ正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ。文句の一に云わく「既にいまだ真を発せざれば、第一義天に慙じ、諸の聖人に愧ず。即ちこれ有羞の僧なり。観慧もし発せば、即ち真実の僧なり」云々。
 涅槃経に云わく「もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵責し挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」云々。この文の中に、「法を壊る者を見て」の「見て」と、「置いて、呵責せずんば」の「置いて」