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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

に一寸の眼二つあり。一歳より六十に及んで多くの物を見る中に、悦ばしきことは「法華は最も第一なり」の経文なり。あさましきことは慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云わく「言うところの頂とは、諸の大乗の法の中において最勝にして無過上なるが故に、頂をもってこれに名づく乃至人の身の頂、最もこれ勝れたるがごとし乃至法華に云わく『この法は法位に住して』。今正しくこの秘密の理を顕説す。故に金剛頂と云うなり」云々。また云わく「金剛は宝の中の宝なるがごとく、この経もまたしかなり。諸の経法の中に最もこれ第一にして、三世の如来の髻の中の宝なるが故に」等云々。
 この釈の心は、「法華は最も第一なり」の経文を奪い取って金剛頂経に付くるのみならず、「人の身の頂、最もこれ勝れたるがごとし」の釈の心は、法華経の頭を切って真言経の頂とせり。これ即ち鶴の頸を切って蝦の頸に付けけるか。真言の蟇も死にぬ、法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候。これこそ人身うけたる眼の不思議にては候え。
 三千年に一度花開くなる優曇華は、転輪聖王これを見る。究竟円満の仏にならざらんより外は、法華経の御敵は見しらざんなり。一乗のかたき、夢のごとく勘え出だして候。
 慈覚大師の御はかは、いずれのところに有りと申すこと、きこえず候。世間に云わく「御頭は出羽国立石寺に有り」云々。いかにもこのことは、頭と身とは別の所に有るか。
 明雲座主は義仲に頭を切られたり。天台座主を見候えば、伝教大師はさておきまいらせ候いぬ、第一義真・第二円澄、この両人は法華経を正とし、真言を傍とせり。第三の座主・慈覚大師は、真言を正とし、法華経を傍とせり。その已後、代々の座主は相論にて、思い定むることなし。第五十五なら