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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

正像なおかくのごとし。中国またしかなり。これは辺土なり。末法の始めなり。かかる事あるべしとは、先におもいさだめぬ。期をこそまち候いつれ〈これ二〉。
 この上の法門は、いにしえ申しおき候いき。めずらしからず。
 円教の六即の位に観行即と申すは、「行ずるところは言うところのごとく、言うところは行ずるところのごとし」と云々。理即・名字の人は、円人なれども、言のみありて真なることかたし。例せば、外典の三墳五典等は、読む人かずをしらず、かれがごとくに世をおさめふれまうこと千万が一もかたし。されば、世のおさまることもまたかたし。
 法華経は紙付きに音をあげてよめども、彼の経文のごとくふれまうことはかたく候か。譬喩品に云わく「経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん」。法師品に云わく「如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」。勧持品に云わく「刀杖を加う乃至しばしば擯出せられん」。安楽行品に云わく「一切世間に怨多くして信じ難し」。
 これらは経文には候えども、いずれの世にかかるべしともしられず。過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身にあたりてよみまいらせて候いけるとみえはんべれ。現在には、正像二千年はさておきぬ、末法に入っては、この日本国には当時は日蓮一人みえ候か。昔の悪王の御時、多くの聖僧の難に値い候いけるには、また所従・眷属等、弟子檀那等、いくそばくかなげき候いけんと、今をもちておしはかり候。
 今、日蓮、法華経一部よみて候。一句一偈になお受記をかぼれり。いかにいわんや一部をやと、い