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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

うるに、あるいは十方台葉の毘盧遮那仏、大集の雲集の諸仏如来、般若の染浄の千仏示現、大日・金剛頂等の千二百尊、ただその近因近果のみを演説して、その遠因果を顕さず。速疾頓成これを説けども、三・五の遠化を亡失し、化導の始終跡を削って見えず。華厳経・大日経等は、一往これを見るに別・円・四蔵等に似たれども、再往これを勘うれば蔵・通二教に同じていまだ別・円にも及ばず。本有の三因これ無し。何をもってか仏の種子を定めん。
 しかるに、新訳の訳者等、漢土に来入するの日、天台の一念三千の法門を見聞して、あるいは自ら持つところの経々に添加し、あるいは天竺より受持するの由これを称す。天台の学者等、あるいは自宗に同ずるを悦び、あるいは遠きを貴んで近きを蔑み、あるいは旧きを捨てて新しきを取り、魔心・愚心出来す。しかりといえども、詮ずるところは、一念三千の仏種にあらずんば、有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり。
 問うて曰わく、上の大難いまだその会通を聞かず、いかん。
 答えて曰わく、無量義経に云わく「いまだ六波羅蜜を修行することを得ずといえども、六波羅蜜は自然に在前す」等云々。法華経に云わく「具足の道を聞きたてまつらんと欲す」等云々。涅槃経に云わく「薩とは具足に名づく」等云々。竜樹菩薩云わく「薩とは六なり」等云々。無依無得大乗四論玄義記に云わく「沙とは訳して六と云う。胡法には六をもって具足の義となすなり」。吉蔵の疏に云わく「沙とは翻じて具足となす」。天台大師云わく「薩とは梵語、ここには妙と翻ず」等云々。
 私に会通を加えば本文を黷すがごとし。しかりといえども、文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙