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候いしが、その通りをもって御教訓あるべく候。詮ずるところ、在々処々に迹門を捨てよと書いて候ことは、今我らが読むところの迹門にては候わず。叡山天台宗の過時の迹を破し候なり。たとい天台・伝教のごとく法のままありとも、今、末法に至っては去年の暦のごとし。いかにいわんや、慈覚より已来、大小・権実に迷って大謗法に同ずるをや。しかるあいだ、像法の時の利益もこれ無し。まして末法においてをや。
一、北方の能化、難じて云わく「爾前の経をば『いまだ真実を顕さず』と捨てながら、安国論には爾前の経を引き文証とすること、自語相違」と不審のこと、前々申せしごとし。総じて、一代聖教を大いに分かちて二つとなす。一には大綱、二には網目なり。初めの大綱とは、成仏得道の教えなり。成仏の教えとは法華経なり。次に網目とは、法華已前の諸経なり。彼の諸経等は不成仏の教えなり。成仏得道の文言これを説くといえども、ただ名字のみ有って、その実義は法華にこれ有り。伝教大師の決権実論に云わく「権智の所作は、ただ名のみ有って、実義有ることなし」云々。ただし、権教においても、成仏得道の外は説相虚しかるべからず。法華のための網目なるが故に。詮ずるところ、成仏の大綱を法華にこれを説き、その余の網目は衆典にこれを明かす。法華のための網目なるが故に、法華の証文にこれを引き用いるべきなり。その上、法華経にて実義有るべきを、爾前の経にして名字ばかりののしること、全く法華のためなり。しかるあいだ、もっとも法華の証文となるべし。
問う。法華を大綱とする証、いかん。
答う。天台は「当に知るべし、この経はただ如来説教の大綱のみを論じて網目を委細にせざるな
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(132)観心本尊得意抄 | 建治元年(’75)11月23日 | 54歳 | 富木常忍 |