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の水とし、一切の草木を焼いて墨となして、一切のけだものの毛を筆とし、十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも、いかでか仏の恩を報じ奉るべき。
法の恩を申さば、法は諸仏の師なり。諸仏の貴きことは法に依る。されば、仏恩を報ぜんと思わん人は法の恩を報ずべし。
次に僧の恩をいわば、仏宝・法宝は必ず僧によって住す。譬えば、薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといえども、僧有って習い伝えずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝わるべからず。故に、大集経に云わく「五箇の五百歳の後に、無智・無戒なる沙門を失ありと云ってこれを悩ますは、この人、仏法の大灯明を滅せんと思え」と説かれたり。しかれば、僧の恩を報じ難し。
されば、三宝の恩を報じ給うべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、これらは皆、我が身を鬼のうちがいとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給いき。しかるに、末代の凡夫、三宝の恩を蒙って三宝の恩を報ぜず。いかにしてか仏道を成ぜん。しかるに、心地観経・梵網経等には、仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。
某は愚癡の凡夫・血肉の身なり。三惑、一分も断ぜず。ただ法華経の故に罵詈・毀謗せられて刀杖を加えられ流罪せられたるをもって、大聖の臂を焼き、髄をくだき、頭をはねられたるになぞらえんと思う。これ一の悦びなり。
第二に大いなる歎きと申すは、法華経第四に云わく「もし悪人有って、不善の心をもって、一劫の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(104)四恩抄 | 弘長2年(’62)1月16日 | 41歳 | 工藤殿 |