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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

を破す。大日経指帰に「法華すらなお及ばず。いわんや自余の教えをや」云々。既に祖師の所判なり。誰かこれに背くべきや。
 決して云わく、道理前のごとし。「法に依って人に依らざれ」の意なり。ただし、この釈を智証の釈と云うこと不審なり。その故は、授決集の下に云わく「もし法華・華厳・涅槃等の経に望めば、これ摂引門なり」と云えり。広修・維蠲を破する時は「法華すらなお及ばず」と書き、授決集には「これ摂引門なり」と云って、二義相違せり。指帰が円珍の作ならば、授決集は智証の釈にあらず。授決集が実作ならば、指帰は智証の釈にあらじ。今このことを案ずるに、授決集が智証の釈ということ、天下の人皆これを知る上、公家の日記にもこれを載せたり。指帰は人多くこれを知らず、公家の日記にもこれ無し。これをもってかれを思うに、後の人作って智証の釈と号するか。能く能く尋ぬべきことなり。授決集は正しき智証の自筆なり。
 密家に、四句・五蔵を設け、十住心を立て、論を引き、伝を三国に寄せ、家々の日記と号し、我が宗を厳るとも、皆これ妄語、胸臆の浮言にして己義を荘厳するの法門なり。詮ずるところ、法華経は大日経より三重の劣、戯論の法にして、釈尊は無明纏縛の仏と云うこと、慥かなる如来の金言たる経文を尋ぬべし。証文無くんば、何と云うとも法華誹謗の罪過を免れず。このこと当家の肝心なり。返す返す忘失することなかれ。
 いずれの宗にも正法誹謗の失これ有り。対論の時は、ただこの一段に在り。仏法は自他宗異なるといえども、翫ぶ本意は道俗・貴賤共に離苦得楽・現当二世のためなり。謗法に成り伏して悪道に堕つ