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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

無量義経は易行道と定め給うこと、金口の明鏡なり。竜樹菩薩、仏の記文に当たって世に出でて諸経の意を演ぶ。あに仏説なる難・易の二道を破って、私に難・易の二道を立てんや。したがって十住毘婆沙論一部の始中終を開くに、全く法華経を難行の中に入れたる文これ無く、ただ華厳経の十地を釈するに、第二地に至り、畢わって宣べず。また、この論に諸経の歴劫修行の旨を挙ぐるに、菩薩、難行道に堕ち二乗地に堕ちて、永不成仏の思いを成す由、見えたり。法華已前の論なること疑いなし。
 竜樹菩薩の意を知らずして、この論の難行の中に法華・真言を入れたりと料簡するか。浄土の三師においては、書釈を見るに、難行・雑行・聖道の中に法華経を入れたる意ほぼこれ有り。しかりといえども、法然がごとき放言のこと、これ無し。
 しかのみならず、仏法を弘めん輩は、教・機・時・国・教法流布の前後を撿うべきか。
 如来、在世に、前の四十余年には、大小を説くといえども、説時いまだ至らざるの故に本懐を演べたまわず。機有りといえども、時無ければ、大法を説きたまわず。霊山八年の間、誰か機ならざる。時も来れる故に本懐を演べたもうに、権機移って実機と成る。法華経の流通ならびに涅槃経には、実教を前とし権教を後とすべきの由見えたり。在世には実を隠して権を前にす。滅後には実を前として権を後となすべき道理顕然なり。
 しかりといえども、天竺国には正法一千年の間は外道有り、一向小乗の国有り、また一向大乗の国有り、また大小兼学の国有り。漢土に仏法渡っても、また天竺のごとし。日本国においては、外道も無く、小乗の機も無く、ただ大乗の機のみ有り。大乗においても法華よりの外の機無し。