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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

義経に依って、法華経に対して諸経を嫌い、嫌えるところの諸経に依れる諸宗を下すことは、天台大師の私にあらず。
 汝等が浄土三部経の中には、念仏に対して諸行を嫌う文はこれ有れども、嫌わるる諸行は浄土三部経よりの外の五十年の諸経なりという現文はこれ無し。また無量義経のごとく阿含・方等・般若・華厳等をも挙げず。誰か知る、三部経には諸の小乗経ならびに歴劫修行の諸経等の諸行を仏は小善根と名づけ給うということを。左右なく念仏よりの外の諸行を小善等と云えるを、法華・涅槃等の一代の教えなりと打ち定めて捨閉閣抛の四字を置いては、仏意にや乖くらんと不審するばかりなり。例せば、王の所従には、諸人の中、諸国の中の凡下等一人も残るべからず、民が所従には諸人・諸国の主は入るべからざるがごとし。
 誠に浄土三部経等が一代超過の経ならば、五十年の諸経を嫌うも、その謂れこれ有りなん。三部経の文より事起こって一代を摂むべしとは見えず。ただ一機一縁のみの小事なり。何ぞ一代を摂めてこれを嫌わん。三師ならびに法然、この義を弁えずして、諸行の中に法華・涅槃ならびに一代を摂めて、末代においてこれを行ぜん者は「千の中に一りも無し」と定むるは、近くは依経に背き、遠くは仏意に違うものなり。
 ただし、竜樹の十住毘婆沙論の難行の中に法華・真言等を入ると云うは、論文に分明にこれ有りや。たとい論文にこれ有りとも、慥かなる経文これ無くんば、不審の内なり。竜樹菩薩の権大乗の論師たりし時の論なるか、また訳者の入れたるかと意得べし。その故は、仏は無量義経に四十余年は難行道、