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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

の中に満ち塞がれるそこばくの菩薩たちの頂を摩で尽くして、時を指して末法近来の我ら衆生のためにたしかにこの由を説き聞かせて、仏の譲り状をもって「末代の衆生にたしかに授与すべし」と、慇懃に三度まで同じ御語に説き給いしかば、そこばくの菩薩たち各数を尽くして躬を曲げ頭を低れ、三度まで同じ言に、各、「我も劣らじ」と事請けを申し給いしかば、仏心安く思しめして本覚の都に還りたもう。三世の諸仏の説法の儀式・作法には、ただ同じ御言に時を指したる末代の譲り状なれば、ただ一向に後の五百歳を指して、「この妙法蓮華経をもって成仏すべき時なり」と、譲り状の面に載せられたる手継ぎ証文なり。
 安楽行品には、末法に入って近来の初心の凡夫、法華経を修行して成仏すべき様を説き置かれしなり。身安楽行・口安楽行・意安楽行の自行の三業も、誓願安楽の化他の行も、同じく「後の末世の法滅せんと欲せん時において」云々。これは近来の時なり。已上、四所に有り。薬王品には二所に説かれ、勧発品には三所に説かれたり。皆、近来を指して譲り置かれたる正しき文書をば用いずして、凡夫の言に付き、愚癡の心に任せて、三世の諸仏の譲り状に背き奉り、永く仏法に背けば、三世の諸仏いかに本意無く口惜しく、心憂く、歎き悲しみ思しめすらん。涅槃経に云わく「法に依って人に依らざれ」云々。痛ましいかな、悲しいかな、末代の学者、仏法を習学して還って仏法を滅す。
 弘決にこれを悲しんで曰わく「この円頓を聞いて崇重せざるは、良に近代に大乗を習う者の雑濫に由るが故なり。いわんや、像末は情澆く信心寡薄にして、円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども、しばらくも思惟せず、便ち瞑目に至る。いたずらに生じ、いたずらに死す。一に何ぞ痛ましきや」已上。