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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

し解了する、これを名字即となす。名字即の位より即身成仏す。故に、円頓の教には次位の次第無し。故に、玄義に云わく「末代の学者、多く経論の方便の断伏を執して諍闘す。水の性の冷ややかなるがごときも、飲まずんばいずくんぞ知らん」已上。天台の判に云わく「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り、断伏の高下は大品・智論に依る」已上。仁王・瓔珞・大品・大智度論、この経論は皆、法華已前の八教の経論なり。権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば、位の次第を説けり。今の法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして、心と仏と衆生と、この三つは我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば、下根の行者すら、なお一生の中に妙覚の位に入る。一と多と相即すれば、一つの位に一切の位皆これ具足せり。故に一生に入るなり。下根すら、かくのごとし。いわんや中根の者をや。いかにいわんや上根をや。実相の外にさらに別の法無し。実相には次第無きが故に位無し。
 総じて一代の聖教は一人の法なれば、我が身の本体を能く能く知るべし。これを悟るを仏と云い、これに迷うは衆生なり。これは華厳経の文の意なり。
 弘決の六に云わく「この身の中につぶさに天地に倣うことを知る。知んぬ、頭の円かなるは天に象り、足の方なるは地に象り、身の内の空種なるは即ちこれ虚空なり。腹の温かなるは春夏に法り、背の剛きは秋冬に法り、四体は四時に法り、大節の十二は十二月に法り、小節の三百六十は三百六十日に法り、鼻の息の出入りは山沢渓谷の中の風に法り、口の息の出入りは虚空の中の風に法り、眼は日月に法り、開閉は昼夜に法り、髪は星辰に法り、眉は北斗に法り、脈は江河に法り、骨は玉石に法り、皮肉は地土に法り、毛は叢林に法り、五臓は天に在っては五星に法り、地に在っては五岳に法り、陰