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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

今、法華経を説かんと欲して、まず序分の開経の無量義経の時、仏自ら勘文し給える教相なれば、人の語も入るべからず、不審をも生すべからず。
 故に、玄義に云わく「九界を権となし、仏界を実となす」已上。九法界の権は四十二年の説教なり。仏法界の実は八箇年の説、法華経これなり。故に、法華経をば仏乗と云う。九界の生死は夢の理なれば権教と云い、仏界の常住は寤の理なれば実教と云う。故に、五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば、権と実との二つの文字をもって鏡に懸けて陰り無し。
 故に、三蔵教を修行すること三僧祇・百大劫を歴て、終に仏に成らんと思えば、我が身より火を出だして、灰身入滅とて灰と成って失せぬるなり。通教を修行すること七阿僧祇・百大劫を満てて、仏に成らんと思えば、前のごとく同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり。
 別教を修行すること二十二大阿僧祇・百千万劫を尽くして、終に仏に成らんと思えば、生死の夢の中の権教の成仏なれば、本覚の寤の法華経の時には、別教には実の仏無し、夢の中の果なり。故に、別教の教道には実の仏無しと云うなり。別教の証道には、初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕し、始めてこれを見れば、別教は隔歴不融の教えと知って、円教に移り入って円人と成り已わって、別教には留まらざるなり。上・中・下の三根の不同有るが故に、初地・二地・三地乃至等覚までも円人と成る。故に、別教の面には仏無きなり。故に、「教のみ有って人無し」と云うなり。
 故に、守護国界章に云わく「有為の報仏は夢中の権果〈前の三教の修行の仏〉、無作の三身は覚前の実