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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

をもって本となす。また実をば実と読む。実事の手本は寤なり。故に、生死の夢は権にして性・体無ければ、権なる事の手本なり。故に妄想と云う。本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば、真実の手本なり。故に実相と云う。ここをもって権実の二字を糾して、一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知るべきなり。故に、四教の中には前の三教と、五時の中には前の四時と、十法界の中には前の九法界は、同じく皆夢の中の善悪の事を説くなり。故に、権教と云う。
 この教相をば、無量義経に「四十余年、未顕真実」と説きたもう已上。
 未顕真実の諸経は夢中の権教なり。故に、釈籤に云わく「性は殊なることなしといえども、必ず幻に藉って、幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す。能応と所化は、ならびに権実にあらず」已上。これ皆、夢幻の中の方便の教えなり。「性は殊なることなしといえども」等とは、夢見る心性と寤の時の心性とはただ一つの心性にして、すべて異なることなしといえども、夢の中の虚事と寤の時の実事と、二事一つの心法なるをもって、見ると思うも我が心なりと云う釈なり。故に、止観に云わく「前の三教の四弘、能も所も泯ぶ」已上。「四弘」とは、衆生の無辺なるを度せんと誓願し、煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し、法門の無尽なるを知らんと誓願し、無上菩提を証せんと誓願す。これを「四弘」と云う。「能」とは如来なり、「所」とは衆生なり。この四弘は、能の仏も所の衆生も、前の三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり。
 しかれば、法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は、未顕真実の権教なり、方便なり。法華に取り寄せるべき方便なるが故に、真実にはあらず。これは、仏自ら四十二年の間説き集め給いて後に、