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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

を聴聞せしかども、法華経のようなる法をばすべてきかず、また仏も終に説かせ給わず」と法華経を讃めたる文なり。四十二年の聴きと今経の聴きとをば、わけたくらぶべからず。
 しかるに、今経を、それ法華経得道の人のためにして爾前得道の者のためには無用なりと云うこと、大いなる誤りなり。おのずから四十二年の経の内には、一機一縁のためにしつらうところの方便なれば、たとい有縁・無縁の沙汰はありとも、法華経は、爾前の経々の座にして得益しつる機どもを押しふさねて一純に調えて説き給いしあいだ、有縁・無縁の沙汰あるべからざるなり。悲しいかな、大小・権実みだりがわしく、仏の本懐を失って、爾前得道の者のためには法華経無用なりと云えることを。能く能く慎むべし、恐るべし。古の徳一大師と云いし人、この義を人にも教え我が心にも存して、さて法華経を読み給いしを、伝教大師この人を破し給う言に、「法華経を讃むといえども、還って法華の心を死す」と責め給いしかば、徳一大師は舌八つにさけて失せ給いき。
 問うて云わく、天台の釈の中に「菩薩、処々に入ることを得」と云う文は、法華経はただ二乗のためにして菩薩のためならず、菩薩は爾前の経の中にしても得道なると見えたり。もししからば、「いまだ真実を顕さず」も、「正直に方便を捨つ」等も、総じて法華経八巻の内、皆もって二乗のためにして、菩薩は一人も有るまじきと意うべきか、いかん。
 答えて云わく、法華経はただ二乗のためにして菩薩のためならずということは、天台より已前、唐土に南三北七と申して十人の学匠の義なり。天台はその義を破し失って、今は弘まらず。もし菩薩なしと云わば、「菩薩はこの法を聞いて、疑網は皆すでに除こりぬ」と云える、あにこれ菩薩の得益な