69ページ
こう法華経は信じがたき上、世もようやく末になれば、聖賢はようやくかくれ、迷者はようやく多し。世間の浅きことすら、なおあやまりやすし。いかにいわんや、出世の深法誤りなかるべしや。犢子・方広が聡敏なりし、なお大小乗経にあやまてり。無垢・摩沓が利根なりし、権実二教を弁えず。正法一千年の内、在世も近く月氏の内なりし、すでにかくのごとし。いわんや、尸那・日本等は、国もへだて、音もかわれり。人の根も鈍なり。寿命も日あさし。貪・瞋・癡も倍増せり。仏世を去ってとし久し。仏経みなあやまれり。誰の智解か直かるべき。
仏涅槃経に記して云わく「末法には正法の者は爪上の土、謗法の者は十方の土」と見えぬ。法滅尽経に云わく「謗法の者は恒河沙、正法の者は一・二の小石」と記しおき給う。千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん。世間の罪によって悪道に堕つる者は爪上の土、仏法によって悪道に堕つる者は十方の土。俗より僧、女より尼、多く悪道に堕つべし。
ここに日蓮案じて云わく、世すでに末代に入って二百余年、辺土に生をうく。その上下賤、その上貧道の身なり。輪廻六趣の間、人天の大王と生まれて万民をなびかすこと、大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず。大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修しあがり、一劫二劫無量劫を経て菩薩の行を立て、すでに不退に入りぬべかりし時も、強盛の悪縁におとされて仏にもならず。しらず、大通結縁の第三類の在世をもれたるか、久遠五百の退転して今に来れるか。法華経を行ぜしほどに、世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びしほどに、権大乗・実大乗経を極めたるようなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者、法華経をつよくほめあげ機をあながちに
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |