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わく「一切世間の天・人および阿修羅は、皆、今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり」等云々。正しくこの疑いを答えて云わく「しかるに、善男子よ、我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云々。
華厳乃至般若、大日経等は、二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給えり。
これらの経々に二つの失あり。一には、「行布を存するが故に、なおいまだ権を開せず」とて、迹門の一念三千をかくせり。二には、「始成を言うが故に、かつていまだ迹を発かず」とて、本門の久遠をかくせり。これらの二つの大法は、一代の綱骨、一切経の心髄なり。
迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて、爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえども、いまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮かべるににたり。
本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕す。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。
こうてかえりみれば、華厳経の台上十方、阿含経の小釈迦、方等・般若の、金光明経の、阿弥陀経の、大日経等の権仏等は、この寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮かべ給うを、諸宗の学
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |