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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

く「始め仏樹に坐して、力めて魔を降す」等云々。大日経に云わく「我は昔道場に坐す」等云々。般若・仁王経に云わく「二十九年」等云々。
 これらは言うにたらず。ただ耳目をおどろかすことは、無量義経に華厳経の唯心法界、方等・般若経の海印三昧・混同無二等の大法をかきあげて、あるいは「いまだ真実を顕さず」、あるいは「歴劫修行」等と下す程の御経に、「我は先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり」と、初成道の華厳経の始成の文に同ぜられし、不思議と打ち思うところに、これは法華経の序分なれば、正宗のことをいわずもあるべし。法華経の正宗、略開三・広開三の御時、「ただ仏と仏とのみ、いまし能く諸法の実相を究尽したまえり」等、「世尊は法久しくして後」等、「正直に方便を捨つ」等、多宝仏、迹門八品を指して「皆これ真実なり」と証明せられしに、何事をか隠すべきなれども、久遠寿量をば秘せさせ給いて、「我は始め道場に坐し、樹を観じまた経行す」等云々。最第一の大不思議なり。
 されば、弥勒菩薩、涌出品に四十余年の未見今見の大菩薩を仏「しかして乃ちこれを教化して、初めて道心を発さしむ」等ととかせ給いしを、疑って云わく「如来は太子たりし時、釈の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり。これより已来、始めて四十余年を過ぎたり。世尊よ。いかんぞこの少時において、大いに仏事を作したまえる」等云々。
 教主釈尊、これらの疑いを晴らさんがために寿量品をとかんとして、爾前・迹門のききを挙げて云