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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

けり。法華にして爾前の経の意を知らしむるなり。
 もししからば、一代聖教は反覆すといえども、法華経無くんば一字も諸経の心を知るべからざるなり。また、法華経を読誦する行者も、この意を知らずんば法華経を読むにてはあるべからず。爾前の経は、深経なればといって浅経の意をば顕さず、浅経なればといってまた深義を含まざるにもあらず。法華経の意は、一々の文字は皆爾前経の意を顕し法華経の意をも顕す故に、一字を読むは一切経を読むなり、一字を読まざるは一切経を読まざるなり。もししからば、法華経無き国には、諸経有りといえども得道は難かるべし。滅後に一切経を読むべきの様は、華厳経にも必ず法華経を列ねて彼の経の意を顕し、観経にも必ず法華経を列ねてその意を顕すべし。諸経もまたもってかくのごとし。しかるに、月支の末の論師および震旦の人師、この意を弁えず。一経を講じて各我得たりと謂い、また諸経に超過するの謂いを成せるは、かつて一経の意を得ざるのみにあらず、謗法の罪に堕つるか。
 問う。天竺の論師、震旦の人師の中に、天台のごとく阿難結集已前の仏口の諸経をかくのごとく意得たる論師・人師これ有るか。
 答う。無著菩薩の摂論には四意趣をもって諸経を釈し、竜樹菩薩の大論には四悉檀をもって一代を得たり。これらはほぼこの意を釈すとは見えたれども、天台のごとく分明には見えず。天親菩薩の法華論も、またもってかくのごとし。震旦国においては、天台より以前の五百年の間には一向にこの義無し。玄の三に云わく「天竺の大論すら、なおその類いにあらず」云々。
 籤の三に云わく「一家の章疏は理に附し教に憑る。およそ立つるところの義は、他の人、その弘む