SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

ことにおそろしく、世間の人々もさわぎうとみあえるはいかに。前にも少々うけたまわり候いぬれども、今度くわしくききひらき候わん。ただし、不審なることは、かかる悪僧どもなれば、三宝の御意にもかなわず、天地にもうけられ給わずして、祈りも叶わざるやらんとおぼえ候はいかに。
 答えて云わく、ぜんぜんも少々申しぬれども、今度またあらあら申すべし。日本国においてはこのこと大切なり。これをしらざる故に、多くの人、口に罪業をつくる。まず山門はじまりしことは、この国に仏法渡って二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師立て始め給いしなり。当時の京都は、昔聖徳太子、王気ありと相し給いしかども、天台宗の渡らん時を待ち給いしあいだ、都をたて給わず。また上宮太子の記して云わく「我が滅後二百余年に仏法日本に弘まるべし」云々。伝教大師、延暦年中に叡山を立て給う。桓武天皇は平の京都をたて給いき。太子の記文たがわざる故なり。されば、山門と王家とは、松と柏とのごとし、蘭と芝とににたり。松かるれば必ず柏かれ、らんしぼめばまたしばしぼむ。王法の栄えは山の悦び、王位の衰えは山の歎きと見えしに、既に世関東に移りしこと、なにとか思しめしけん。
 秘法四十一人の行者。承久三年辛巳四月十九日、京夷乱れし時、関東調伏のため、隠岐法皇の宣旨によって始めて行わるる御修法十五壇の秘法。
 一字金輪法〈天台座主・慈円僧正。伴僧十二口。関白殿基通の御沙汰〉
 四天王法〈成興寺の宮僧正。伴僧八口。広瀬殿において。修明門院の御沙汰〉
 不動明王法〈成宝僧正。伴僧八口。花山院禅門の御沙汰〉