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華経になき由を読み出だされ候いて後、長安城より尋ね出だし、今は二十八品にて弘まらせ給う。
さて、この品に浄心信敬の人のことを云うに、一には「三悪道に堕ちず」、二には「十方の仏前に生ぜん」、三には「生ずるところの処にて、常にこの経を聞かん」、四には「もし人天の中に生ぜば、勝妙の楽を受けん」、五には「もし仏前に在らば、蓮華に化生せん」となり。しかるに、一切衆生は、法性真如の都を迷い出でて妄想顚倒の里に入りしより已来、身・口・意の三業になすところ、善根は少なく悪業は多し。されば、経文には「一人一日の中に八億四千念あり。念々の中に作すところは、皆これ三途の業なり」等云々。我ら衆生、三界二十五有のちまたに輪回せしこと鳥の林に移るがごとく、死しては生じ生じては死し、車の場に回るがごとく、始め終わりもなく、死し生ずる悪業深重の衆生なり。
ここをもって、心地観経に云わく「有情の輪回して六道に生ずること、なお車輪の始終無きがごとし。あるいは父母となり、男女となり、生々世々互いに恩有り」等云々。法華経二の巻に云わく「三界は安きことなし、なお火宅のごとし。衆苦は充満す」云々。涅槃経二十二に云わく「菩薩摩訶薩、諸の衆生を観ずるに、色・香・味・触の因縁のための故に、昔無量無数劫より以来、常に苦悩を受く。一々の衆生、一劫の中に積むところの身の骨は王舎城の毘富羅山のごとく、飲むところの乳汁は四海の水のごとく、身より出だすところの血は四海の水より多く、父母・兄弟・妻子・眷属の命終に涕泣して出だすところの目涙は四大海の水より多し。地の草木を尽くして四寸の籌となして、もって父母を数うるも、また尽くすこと能わじ。無量劫より已来、あるいは地獄・畜生・餓鬼に在って受くる
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(031)女人成仏抄 | 文永2年(’65) | 44歳 |