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説くべしと、仏ゆるし給えり。ただし、また滅後なりとも、当機衆になりぬべきものには、まず権経をとくこともあるべし。
また、悲を先とする人は、まず権経をとく。釈迦仏のごとし。慈を先とする人は、まず実経をとくべし。不軽菩薩のごとし。また末代の凡夫は、なにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし。同じく悪道に堕つるならば、法華経を謗ぜさせて堕とすならば世間の罪をもって堕ちたるにはにるべからず。「法を聞き謗を生じて地獄に堕つるは、恒沙の仏を供養する者に勝る」等の文のごとし。この文の心は、法華経をぼうじて地獄に堕ちたるは、釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し帰依・渇仰する功徳には、百千万倍すぎたりととかれたり。
問うて云わく、上の義のごとくならば、華厳・法相・三論・真言・浄土等の祖師は、みな謗法に堕すべきか。華厳宗には「華厳経は法華経には雲泥超過せり」。法相・三論もて、かくのごとし。真言宗には、日本国に二つの流れあり。東寺の真言は「法華経は華厳経におとれり。いかにいわんや大日経においてをや」。天台の真言には「大日経と法華経とは、理は斉等なり。印・真言等は超過せり」と云々。これらは皆悪道に堕つべしや。
答えて云わく、宗をたて経々の勝劣を判ずるに、二つの義あり。一は似破、二は能破なり。一に似破とは、他の義は吉しとおもえども、これをはす。かの正義を分明にあらわさんがためか。二に能破とは、実に他人の義の勝れたるをば弁えずして、迷って我が義すぐれたりとおもいて、心中よりこれを破するをば能破という。されば、彼の宗々の祖師に、似破・能破の二つの義あるべし。心中には法
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(029)顕謗法抄 | 弘長2年(’62) | 41歳 |