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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

刻なり。これ、時を知れるなり。しかるに、日本国の当世の学者、あるいは法華経を抛って一向に称名念仏を行じ、あるいは小乗の戒律を教えて叡山の大僧を蔑り、あるいは教外を立てて法華の正法を軽しむ。これらは時に迷える者か。例せば、勝意比丘が喜根菩薩を謗じ、徳光論師が弥勒菩薩を蔑って、阿鼻の大苦を招きしがごとし。
 日本国は一向法華経の国なり。例せば、舎衛国の一向大乗なりしがごとし。また天竺には、一向小乗の国、一向大乗の国、大小兼学の国もこれ有り。日本国は一向大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国たるべきなり〈瑜伽論・肇公の記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記、これ有り〉。これ、国を知れる者なり。しかるに、当世の学者、日本国の衆生に一向に小乗の戒律を授け、一向に念仏者等と成すは、「譬えば、宝器に穢食を入れたるがごとし」等云々〈宝器の譬えは、伝教大師の守護章に在り〉。
 日本国には、欽明天皇の御宇に仏法百済国より渡り始めしより桓武天皇に至るまで、二百四十余年の間、この国に小乗・権大乗のみ弘まり、法華経有りといえども、その義いまだ顕れず。例せば、震旦国に法華経渡って三百余年の間、法華経有りといえども、その義いまだ顕れざりしがごとし。桓武天皇の御宇に伝教大師有して、小乗・権大乗の義を破して法華経の実義を顕せしより已来、また異義無く、純一に法華経を信ず。たとい華厳・般若・深密・阿含の大小の六宗を学する者も、法華経をもって所詮となす。いわんや天台・真言の学者をや。いかにいわんや在家の無智の者をや。例せば、崑崙山に石無く、蓬萊山に毒無きがごとし。
 建仁より已来今に五十余年の間、大日・仏陀、禅宗を弘め、法然・隆寛、浄土宗を興し、実大乗を