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答えて云わく、遠く余処に証拠を尋ぬべきにあらず。即ち選択集にこれ見えたり。
問うて云わく、その証文、いかん。
答えて云わく、選択集の第一篇に云わく「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨て正しく浄土に帰するの文」と約束し了わって、次下に安楽集を引いて私の料簡の段に云わく「初めに聖道門とは、これについて二つ有り。一には大乗、二には小乗なり。大乗の中について顕密・権実等の不同有りといえども、今この集の意はただ顕大および権大のみを存す。故に、歴劫迂回の行に当たる。これに準じてこれを思うに、応に密大および実大をも存すべし」已上。選択集の文なり。この文の意は、道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経において聖道・浄土の二門を分かつといえども、我私に法華・真言等の実大・密大をもって四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す。「準之思之(これに準じてこれを思うに)」の四字これなり。この意に依るが故に、また曇鸞の難易の二道を引く時、私に法華・真言をもって難行道の中に入れ、善導和尚の正雑二行を分かつ時も、また私に法華・真言をもって雑行の内に入る。総じて、選択集の十六段に亘って無量の謗法を作す根源は、ひとえにこの四字より起こる。誤れるかな、畏ろしきかな。
ここに、源空の門弟、師の邪義を救って云わく、諸宗の常の習い、たとい経論の証文無しといえども、義類の同じきを聚めて一処に置く。しかるに選択集の意は、法華・真言等を集めて雑行の内に入れ、正行に対してこれを捨つ。ひとえに経の法体を嫌うにあらず。ただ風勢無き末代の衆生を常没の凡夫と定め、この機に易行の法を撰ぶ時、称名の念仏をもってその機に当て、易行の法をもって諸教
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |