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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

薩・二乗・人天・八部等を責めて「多宝如来ならびに十方の諸仏、涌出・来集の意趣は、ひとえに令法久住のためなり。各三説の諸経滅尽の後、たしかに未来の五濁・難信の世界においてこの経を弘めんと誓言を立てよ」と云える時に、二万の菩薩、八十万億那由他の菩薩、各誓状を立てて云わく「我は身命を愛せず、ただ無上道を惜しむのみ」。千世界の微塵の菩薩、文殊等、皆誓って云わく「我らは仏滅して後において乃至当に広くこの経を説くべし」云々。その後、仏十喩を挙げたもう。その第一の喩えは、川流江河をもって四十余年の諸経に譬え、法華経をもって大海に譬う。末代濁悪の無慙・無愧の大旱魃の時、四味の川流江河は竭くといえども、法華経の大海は減少せず等と説き了わって、次下に正しく説いて云わく「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむることなけん」と定め了わんぬ。
 つらつら文の次第を案ずるに、「我滅度して後」の次の「後」の字は、四十余年の諸経滅尽の後の「後」の字なり。故に、法華経の流通たる涅槃経に云わく「応に無上の仏法をもって諸の菩薩に付すべし。諸の菩薩は、よくかくのごとき法宝を問答すれば、則ち無量千世に久住し増益熾盛にして衆生を利安することを得るをもってなり」已上。これらの文のごとくんば、法華・涅槃は無量百歳にも絶ゆべからざる経なり。この義を知らざる世間の学者は、大集権門の「五の五百歳」の文をもってこの経に同じ、浄土三部経より已前に滅尽すべしと立義を存して、一経の先後・起尽を忘れたるなり。
 問うて云わく、上に挙ぐるところの曇鸞・道綽・善導・恵心等の諸師は、皆、法華・真言等の諸経において末代不相応の釈を作る。これに依って、源空ならびに所化の弟子、法華・真言等をもって雑行